昭和五十六年十一月十日 朝の御理解
御理解第二十九節 「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。梅の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
御理解第三十節 「神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。」
 昨日、久しぶりに参って来た方が、それこそにこにことして参ってまいりました。その方達は何回も、何回も今にも夫婦別れをすると言うお届けに来て、その都度、都度におかげ、お繰り合わせを頂いて、今日まで続いて子供も幾人もある夫婦なんですけれども。親先生おかげ頂きましたち、言うんです。「どういう亊だったですか。」と言うたら、「先達てから、三日間、風邪をひいて休みました。そしたら主人がご飯をたいてくれる亊から、子供の世話から、洗濯までしてくれてたいへん優しくしてくれて、こんなにやさしい人とは、もう十数年連れ添ってるけども分かりませんでした。こんな嬉しい亊はありません。」と言うお礼のお届けがありましたら、桜の花がいっぱいこれに風が、びゅっと吹いたら又散るだろうと、言うような感じの所をいただいたんですけれども、なら、ちょいちょい風邪をひかにゃいかんの、ち言うてまあ、申しました亊でございます。ね、本当に主人が親切で、やさしくてと言う亊が風邪をひいて三日間、寝込んで分かったと言うのです。そりゃ、おかげなんですけれども、これがちょっと今度、反対になると又、別れるとなんのと言うのじゃないだろうかとこう思う。桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。とね、やはり梅の花の信心と言うのは、私はまあ、いろいろ頂かんならんでしょうけれども、信心辛抱の亊だと思うんです。ね、信心辛抱の出来る人ならば、ね、どういう亊であってもやはり、それを信心で辛抱し抜きます。ただ辛抱力が強いと言う人もありますもんね。けども、どこまでも梅の花の信心で辛抱していく中に、身に徳を受け、ね、花も咲きゃ鶯も来てとまる実にもなって梅干しというお徳にもなると言うような、私は辛抱でなからなきゃいけないと思う。辛抱力を作る。結局神を信ずる者は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない、と言うのは、私は桜の花の信心では神様に信じられぬと言う、言うならば御神徳と言うのは、神の信用とさえ、信用と、久留米の初代は言っておられたそうですが、桜の花的な、もう有り難い、有り難いのようにあるけれども、それがぱあっと散ってしまうような信心では、悪か人間じゃなかばってん、ありゃあ駄目だと言うような亊になるのじゃないでしょうかね。あの氏子だけは、どんな時だっても神様にすがって、辛抱しぬいていくという、その信心辛抱がね、言うならさまざまな過程を通っておかげを頂いた時に初めてこの氏子は、と神様の御信用、いわゆる御神徳がうけられるタイプだと思います。これは私自身の亊を思いますと、私も大体、辛抱力がなくてまあ、どちらかと言うと、佐古らの花の性格であります。けれども、自分の難儀な時にいよいよ神様におすがりしなければ自分は立ちゆかんのだと言う亊が分かった所から、信心辛抱と言う亊が、だんだん身について来ように思います。こりゃ、まあ合楽のまあ、信心の一つの目当てのように言われます。
 「梅の香りを桜にもたせ、しだれ柳に咲かせたい」
 都都逸の文句です。そんな馬鹿げた亊が出来るはずがないじゃないか、といやもうだから、それまでなんです。私や、もうこの桜の花のパアッと散る。まあそれを何と言うですかね、大和心にたとえた人さえあるくらいですから、いわゆる散り際がいいと言うわけなんです。くよくよしない。というふうな、ふうにも頂くでしょうけれども、そういう桜の花的なものは何とはなしに、私は身についておる。こりゃ、信心をだんだん頂くようになって気づかせて頂いた亊でしたけれども、私にが何かこの天性というか、あの馬鹿ほど素直な所があるなと自分で思うんです。ね、自分ではそれを欠点と思うておった。また、兎に角どんな亊でも「はい」と出けんでも、言わにゃでけん。金を貸してくれ、と言いや自分な持たんでん、借ってからでん、貸してやらにゃその人に対して気の毒から言うような所があるわけです。もう、飲み代なんかでも、ちゃんとこちが払うわにゃ、あとでこげなこっちゃ自分な儲けだしきらん、と思いながらもです、何かそういう、まあ、欠点がある。私には。まるでこんなことで自分は儲け出しきらんと思いよった。馬鹿んごたる、言うならば素直さと言うか、もうこりゃ子供の時からです。私の隣に伯父がおりましたが、もう、まあ伯父の自慢の甥ですけれども親んいう亊は聞かんでん、私が言う亊は聞くと言うて、言いよりましたが。ね、私に、おさんがあるともう、この人は私が言うならどげなこつでん聞くち。けんで「おっちゃんが、よかち言うまでそけ、寝とけ」ち言うとちゃんとこうやってから、上向いて寝てるんですよ。そすとあのう、そのまま眠ってしまうような亊もある。と言うのは、もうよかぞと言うもで私はねとるわけです。そすと必ずお菓子やら、おやつをもらうわけです。まあ腰を踏んでくれ、昔は子供ん時ですから、打ちはせんで踏んでやる。それにも伯父はぐう、ぐう言うち寝てしまうとりますもん。そりばってん下りきらんとですね、やっぱ。今、私の孫達に、肩たたけとか、腰をふんでくれち言うたっちゃ、そりゃ、もうやるとはやるばってん、すぐ止めますよ。けども私はいや、と言いきらん性分です昔から。それでもう自分な気持ちよさそうに眠っとる。わたしゃ下りらんな一生懸命踏みよる。それをあの、ばばが来てから、もうその、えらい、その伯父をおこりよりました。こうまか者にいつまっでん踏ませちからち言うちから。そいういうね、だからこんなこつじゃ自分の成功は出けんぞ。儲けだしは出けんぞと思うておった、その亊が実を言うたら、私はおかげを頂く元になったんだと思うです。そりゃもう、さまざまな亊がございました中にもです。そりこそ神様が無理難題を言われるような亊でもです、もうそれこそ泣く泣くでも、それを私は受けぬかせて頂いた亊です。これは私のまあ、言うなら天性と言うんでしょうか、欠点と思うておった亊が長所であった。ただ私に欠けておるのは辛抱力が足りない。梅の花の信心が出けんと言う亊であったけれども、言うなら難儀様のおかげでその辛抱力も身について、自分に欠けておる、こりゃ自分の性格だからと言うたら、信心はそこまでですよ。そこに改まろうとする精進、自分はここが欠けておるから、ここを本気で改めようとする。そういう精進がです、嘘のような話ですけれども、梅の香りを桜にもたせ、しだれ柳に咲かせるようなおかげにもなってくるんです。合楽教会の場合なんかね、そういう、でしょうが、兎に角、御大祭を見ても本当に桜の花が花が、一ぺんに咲いたような感じがいたします。ね、先達てのあの宮崎支部の大祭なんかもそんな感じでしたね。はあ、やっぱし合楽的だなあと思いました。ね、ですから、あすこにいわゆる素直心とか、辛抱力が欠けておると気づいた所を本気で、そこに取り組んで精進させていただく所から、生まれてくる神様の御信用。ありも足らい、これも足ろうてきた。あの氏子はとこう神様が認めて下さる。何回も、何回も夫婦別れしょうと、もう別れるかのようにみえておりました。けれども、やっぱりお願いにみえて神様からの御信用を頂いてね、一応は例え別れておるような亊があっても、何かそこに御都合お繰り合わせを頂いて、帰って来んならんといったようなおくり合わせを頂いて今日である。昨日の私がお取り次ぎさせて頂いた方の亊。ね、時々だから風邪も。時々ひかなんのと言ったような亊のだから、では、おかげは受けても御徳にはならん亊が分かりますね。悪か人間じゃなかばってん辛抱力が足らん。と言う所に私は信用はつかんと思うね。どうでも一つ、合楽では皆さんがそれぞれ、まあ大体、合楽にご縁を頂いておられる方達ですから、やっぱり私、系統だと思うですよ。類は類をもって集まると言うですからね。ですからそこに何がどれが欠けておるか分かりませんけれども、自分に欠けておると言う所を本気に取り組ませて頂くような信心。そこにはなら、梅も桜もと言う亊になってくるでしょうからね。それこそ、それに柳の信心が伴うた、ね、この「素直心の一つにて、雲の上まで上る道あり」と言われる位なのですから。それに梅の花の信心が出け、そして桜の花の咲くような、華やかなおかげも又頂けたら、まあ、それこそ三拍子そろったおかげと言うことになるのじゃないでしょうかね。今日はこの二十九節、三十節を頂いてね。昨日のその夫婦仲良うなられたと初めて、主人の優しさが分かったと言われる。その方の亊から今日はヒントを得てお話を聞いて頂きました。                  「どうぞ。」